「書かれる手」−堀江敏幸−

canoe-ken2005-01-21

マグリットユルスナール竹西寛子島尾敏雄長谷川四郎などの作品を取り上げた評論集。YAな「じゃぼん」の後にこういう本を読むのとちょっと辛い。論じられている作家に関しても田中小実昌須賀敦子くらいしか読んだことのない私としては、正直なところ、文字を追いかけるだけで精一杯という箇所も時折出てきたりする。しかも収録されているのは、堀江敏幸が大学の卒論として書いたものなど若い頃に書いたものも含まれており、それがまたどこかぎこちないところもあるけれど、後年の文章の骨組みというか、基本的な色合いがはっきりと出ていて、文章を書ける人というのは最初からきちんとかけるものだなぁ、と思いつまされてしまう。「デビュー作にその表現者のすべてが要素が出そろっている」、ということか。

先週、100sの「OZ」を買ったので、ここのところそればかり聞いている。「金字塔」や「太陽」以来、何年かぶりにちゃんと聴いた中村一義は、相変わらずの突き抜けるようなメロディとヴォーカルが心地よく、その上にデビューの頃と比べてかなり骨太になったバンドサウンドが加わって、成長というのはこういうものだ、ということを実感させてくれる。実を言えば私は、中村一義はだんだんSSW的なシンプルな方向に進むのではと、昔思っていたので、いい意味で裏切られた気分。ここにも「デビュー作にその表現者のすべてが要素が出そろっている」という事実がある。

それにしても「犬と猫」にあわせてぼろぼろのソファを叩いていたあの頃が懐かしい。風呂なし6畳一間の部屋で、近くのクラブでDJをしたり、パルコでバイトしたり、Windows95も入っていない古いパソコンで「Pastel Paper」なんていうフリーペーパーを作ったりしてた、そういう日々が終わりかけていた頃。「Pastel Paper」は大掃除をするたびに捨ててしまおうと思うけれど、未だに捨てられなかったりする。今では読みとれない5インチのフロッピーと糊がはがれかけてぼろぼろになったの元原稿。読み返すことは絶対ないと思うけど、おそらくこの雑記とあんまり変わってなくて、しかもめちゃくちゃ稚拙で、ちょっとだけ熱っぽかったりして、恥ずかしくて読み返せない。言いかえれば、そこには「初めの頃からずっと同じでほとんど成長できていない」という・・・・。