「文房具56話」−串田孫一−

タイトルで分かるように串田孫一が、帳面、万年筆、封筒、ペーパーナイフ、虫眼鏡・・・・など自分が愛用している文房具について語った本。書かれている文房具の絵や写真が添えてあればいいのにと思う。

最後の方の章で、戦時中に物資不足で文房具も不自由になってきたときに、まずそのときあるもので何とかしようと工夫するのだけれど、それもままならなくなってくると万年筆はこれでなければとか、原稿用紙はあれでなければと気分的な贅沢を主張していた人が、あっさりとあるもので間に合わせる、あるいはなければないで済ませるという風に転向してしまったことについて、

「文化というのは、ある底力をもった根強さがあるが、その上に築かれている部分は意外と弱いものであって、愚かな権力者があらわれて、その文化は無駄なものだと無茶なことを言い出すと、簡単に崩れて、抵抗力がない。
みんな落ちるところまで落ちると、却って気分がさっぱりとしてしまったような錯覚に陥ってしまう。
実は私はそれが恐ろしいと思った。」

と書いていて、最近これを逆のことをよく考えていたので胸にズンときた。

今の時代は、ものがたくさんありすぎてたいていのものはすぐに手に入るわけで、その上で何かを売ろうすると、結局「こだわり」と都合よく使われている「どうでもいいような些細な違い」に価値をつけることしかできなくなっていて、それに振り回されるのはどうかと思うのだ。
「気分的な贅沢」を追求していくと、最終的にはものやその価値観に振り回されてしまって疲れる。本当に手放したくない「気分的な贅沢」と切り捨てるべき「気分的な贅沢」をきちんと分けてその場その場できちんと判断していくべきなのだが、例えば作家でもミュージシャンでも何かの研究者でもなく、普通の会社員である私に本当に必要なこだわるべきものってなんなのだろうか。わからない。