「如何なる星の下に」−高見順−

何の本だったか忘れたけれど、「戦前の浅草の様子が描かれた本」として紹介されていた作品。実際、仕事場として浅草にアパートを借りている書けない作家が、書けないままレヴューの女の子に恋をしたり(でもかなり一方的で最初から最後までで一回しか直接会わない)、酒を飲んだり、食事をしたり・・・・そんな描写が続いてる。
その分、先の本のとおりレヴューに出ている踊り子たちや芸人の生き方や当時の浅草の様子などが細かく描かれていて、当時のいや現在の浅草さえ知らない私でも楽しめる。実際、主に入り浸る食堂以外で出てくるたべもの屋などは実在したものなんじゃないかな。どうなのだろうか?

単行本で読んだせいもあり、旧仮名遣い・旧漢字で表記されているのもそういう雰囲気が出てるのかもしれない。吉田健一で旧仮名遣い・旧漢字はきついけど、このくらい軽いスタイルだと適当にとばして読めるので読みやすい。旧仮名遣いをすらすら読んだり書けたりできるようになりたい、とさえ思う。使う機会全然ないだろうけれど。
その前に今の漢字も私はちゃんと読めないのでなんとかするべきか!?「思春期の頃にあんまり友達がいなくて本ばかり読んでいた人は、勝手に漢字を解釈するので正しい読み方ができない」とブロスに書いてあったのを読んで、「あっそれ俺のこと?」と思った私です。

ついでに書くと、今読んでいる紀田順一郎の本によると、本を黙読するようになったのは明治の末の頃からで、それまでは音読していたらしい。そしてそのことについて紀田順一郎は「音読から黙読に切り替わったときが、“近代読者”の誕生ということになる」と結論づけている。でも同時に黙読に変わった時点で漢字を正しく読むことができなくなったのでは、なんてことも思ったりもする。そんなことないか。
統計的・歴史的に考えて漢字を読むという能力はいつの時代が一番優れていたのかな。明治の作家は確かに口語・文語を使い分けてるし、漢詩なども作ったりして優れているけれど、全体で考えたら文盲も人も多かっただろうし。う〓ん、わからん。