「禁酒宣言 上林暁酒場小説集」−上林暁−

canoe-ken2005-05-30

これは一つの考え方なのですべての場合に当てはまるというわけではないけれど、物事を好きになるということの基準のひとつに「ひとりでする」かどうかということが挙げられると思う。例えば、映画。子供の頃はたいてい親や兄弟たち、友達と見に行っているけれど、映画が好きになると次第にひとりで映画館に入り浸るようになる。ライブやクラブ、あるいは旅行などもにいくのもそう。初めは誰かと一緒に行くけれど、だんだんとひとりで行くようになる。ずっと友達と一緒かもしれない。だからといって映画などが好きではないということにはならないけれど・・・・。でも“何かをひとりでする”ということは、やはりほんとうに好きだからだと思う。
そういう基準からいうと私はそれほど酒が好きというわけではないと言えるのだろう。自分から誰かを誘って飲みに行くことはあってもひとりで飲みに行くということはない。それほど飲めるわけでもない。記憶がなくなるくらい酔ったこともないし、最近は吐くまでの呑むこともない。たいてい中ジョッキ4杯か5杯くらいでやめる。近所の荻窪や吉祥寺で呑む時は、自転車で家まで帰えるあいだに酔いがまわるので、気をつけるようにもしている。

そのわりには読む本に関しては、酒好きの作家が多い。この上林暁井伏鱒二木山捷平、外村繁、小沼丹など、中央線、阿佐ヶ谷周辺の作家はもちろん、永井龍男吉田健一、そして山口瞳などもそう。呑まない作家と言えば小島政二郎くらいもしれない。そしてこの人たちはみんな当然のようにひとりでも飲みに行く。そして何軒も酒場を梯子し、最後には記憶もあやふやになってふらふらと家路につく。
この本は、7年間の闘病生活の後、昭和21年に妻を失い、酒に慰めを求めるようになった時期から、ついには身体をこわして「禁酒」を余儀なくされるまでのあいだに書かれた作品をまとめたもの。宿酔と悔恨をいくら重ねても止められず、毎晩のように酒場を放浪し、寂しさから酒場のマダムに心をよせ、時に切実に壮絶に耐え難い酒に対しての悔恨を語り、時にマダムや酒場で出会う人々とのやりとりを滑稽に描いている。山口瞳も含めてなんで、私はこんな“酒飲み小説”が好きなんだろうか。