「山椒魚」−井伏鱒二−

この作品の題名を初めて目にしたのは、おそらく中学くらいの国語の授業だったような気がする。でもまさか自分が読むなんてことは想像もしてなかったね。この作品に限らず井伏鱒二の作品は、10代の頃に読む本ではないような気がするな。

名作とか名著とか呼ばれている本は、当然、それ一冊だけ読んでもおもしろくて、感動したり、考えさせられたりするのだろうけれど、結局はそれは“点”でしかなくて、“線”にはならなくて、その本を起点とした縦の線(作者がどのような作家に影響を受けてきてどのような作品の変遷をたどってその作品を書き、その後の人にどのような影響を与えたのか・・・・など)と、横の線(同時代の作家にどのような人がいて、どのような考え方があって・・・・など)が繋がっていくことで、そのおもしろさが広がっていくわけで、「ロング・バケーション」だけ聴いても大滝詠一のすごさは分からないのと同じ、なんてすぐに自分の興味のあるほうに持って行きつつ、実際は音楽でも映画でも美術でも文学でもそれは変わらなくて、こんなことを書いていると、読まなくちゃいけない本がたくさんあるのに、そんな作者をたどっていって、その作者の駄作まで読まなくちゃいけないのか、なんて思われそうだけれど、それは文学がただの楽しみや趣味ではなく、教養みたいなものと結びついてしまっているから、名作と呼ばれる本を読まされることを強要されてしまうのがいけなくて、別に趣味と考えれば自分にとってつまらない本は読まなければいいだけの話であって、なんで明治以降の作家の小説が教養みたいなものになってしまったのか、それはいつからなのかよくわからないけれど、確かに言葉を覚えるという意味では「まずは本を読もう」という考えは分かるけれど、少なくともその時代ではその作品はただの新刊であって、そういった教養とは結びついていなかったはずで、よく分からないけれど、その作品が名作をしてピックアップされる段階において、意図的ななにかがあったのではないか、なんてことを考えてしまうのは私だけなのだろうか、実際、毎日のように酒を飲んでけんかをしたり、酒に溺れたり、薬に走ったり、愛人を自殺したり・・・・といった人たちの文章を普通に教養として受け入れて、それを読んでいない人はダメみたいな感じにいる世の中がなんとなくおかしくて、変な感じがするわけで・・・・

・・・・なんてことをこの「山椒魚」を読みながらぼんやりと考えていたのだけれど、考えがまとまらなかったのでそのままだらだらと書いてみた。