「おぱらばん」−堀江敏幸−

堀江敏幸の「郊外へ」を知り合いに借りて読んだときの気持ちは忘れられない。現実と虚構とそして史実をの垣根を軽やかに飛び越えて行き来し、そしてそれらが絡み合い緻密に組み立てられた構成の前に、僕はその世界にただ夢中になり、ただため息をつくしかないという感じでした。
それから何年か経っているのに未だに全部の作品を読んでないのは、「読みたくなったときに読んでない本がまだある」という状態にいつもしておきたいからと、あんまり夢中になると、どうでもいいような本の感想とただの思いつきとつまらない毎日をなんの工夫もなく勢いだけで書いているこんな日記を続ける気力がなくなってしまうかも、と思うから。

ところで先日、仕事中にyahooのニュースなんて見ていたら、フランスの写真家、アンリ・カルティエ・ブレッソンが3日亡くなっていた、というニュースを発見してびっくり。というか、そういえばまだ生きてたんだ!という気持ちに。95歳だったそうです。
勝手言い方をしてしまえば、たぶん趣味でも何でも若い頃にカメラを手に取った人は誰でも、「ロバート・キャパになりたい」と漠然と思い、自分にそんなバイタリティや行動力がないことに気づくのではないかと思うのだけれど、同じように「ブレッソンのような写真を撮りたい」とも思い、同じように挫折するのではないだろうか。
そう思うくらいブレッソンは、「決定的瞬間は出来事を完全な構図で撮る」というカメラという機械を用いた表現の一端を完璧に行っているのだけれど、個人的にはキャパに比べて一般的でないように思われる。それはやはり「なりたい」と思わせるか「撮りたい」と思わせるかの違いで、結局のところ、純粋に写真や絵画、音楽・・・・といったものだけで世の中を振り向かせるのは難しく、人々は作品とともにその人の生き方や主張というものに大きな影響されるのだなぁと。
それは毎年12月になると思うことで、なんでジョン・レノンの評価とポール・マッカトニーの評価はあれほどまでに違うのか、どうも私には理解できないんですよ。

今日は久しぶりにブレッソンの写真でも眺めて、週末はカメラを持って街に出てみようかな、なんてふと思ったりもするけれど、ブレッソンの写真なんて見ていると、どうあがいても自分には写真を撮る才能がないのだと思い知らされてしまいます。