「猫のいる日々」−大佛次郎−

canoe-ken2006-03-09

前にも書いたことがあると思いますが、20代の中頃、調布でひとり暮らしをしていた時に、通いの猫、大佛次郎風に言えば“外様猫”を飼っていたことがありました。その頃、住んでいたアパートは、ベランダもなく、窓を開けるとそのまま外に出られるようなところで、目の前は畑が広がっていて、アパートとの間には割と高い囲いがあって、庭とは言えないけれど、小さな空間ができていました。その空間は、その猫の通り道になっていたようで、部屋の中で何かしていると、塀の向こうから猫があらわれて部屋の前を通って、またどこかに行ってしまうのが、ときどき視界の隅にかすかに見えたりしていました。

何度か通り過ぎていく猫を見ているうちに、ある日、餌を飼って窓の外に置いておくことを思いついて、スーパーで猫の餌を買って、朝、バイトに行く前に窓の外に置いておきました。はたして、夜、家に帰ってくると餌はなくなっていたのです。でも、家にいるときに餌を置いておいても、なかなか姿を見せません。そのくせ、お風呂に行って帰ってきたりすると、餌がなくなったりしています。そんな風に朝、餌を置いて家を出て、帰ってくるとなくなっている、という状態が数週間続きました。

そのうち何がきっかけだったのか忘れましたが、わたしが餌を用意していると、囲いの向こうから顔をだしたりして近づくようになって、いつの間にか餌を食べ終わってもしばらくのあいだは、部屋の前で寝ころんだりしたり、頭をなでてやるとすり寄ってきたり、部屋の中に入りたがって網戸をガリガリするようになってきました。でも、そのころ私は、腕や首筋にアトビーが出ていたし、季節の変わり目には、必ずぜんそくの発作が出ていたので、部屋の中に入れてやることはできず、実際、何回か入れてやったこともあるのですが、30分くらいでわたしのほうがゼイゼイいって、苦しくなったりしたのです。

わたしはその猫にサバをいう名前をつけてました。サバは次第に、わたしが部屋にいるときは部屋の外にいることの方が多くなってきました。たいていは窓の下で寝ころんでいるのですが、部屋にいる私が立ち上がったりすると、餌をもらえるのかと思い、起きあがってガラスを叩きます。わたしが出かけているあいだは、どこかに行っているようで、帰り道、家の前の道を歩いていると、アパートの向こうから走ってくる音が聞こえ、部屋の電気をつけると、立ち上がってガラス窓寄りかかっているサバの姿が、曇りガラスの向こうで影となって見えました。

そんなサバがあるとき姿を見せなくなったのです。(この項続く?)