「湖沼学入門」−山口瞳−

東北に向かう電車の窓から一瞬見えた沼の風景にひかれて、あんなところでゆっくりと絵を描けたらいいな、と思ったことから実現した企画で、山口瞳とドスト氏こと関保寿が全国の沼、湖などを巡りつつ絵を描く様子を綴られていく。
といっても緑や水辺がきれいな場所でのんびりとカンバスに向かっている、なんて光景はまったくなく。目当ての場所は記憶と違ってコンクリートで固められていたり、前情報で得た風景とまったく違っていたり、雨が降り続いていたり、はたまたほかのメンバーも含め出発の何時間前まで飲み続けていて二日酔いのままだったり、38度の熱を出して朦朧としていたり、親友が亡くなったすぐ後だったり・・・・あげていくときりがないほどアクシデントに見舞われつつ、旅が過ぎてしまいます。それは同じような趣向の「迷惑旅行」や「酔いどれ紀行」などと同じですが・・・・
そして文中で何度も繰り返されるのは「どうしようもないこと」と「とりかえしのつかないこと」の2つ。自分ではこうしたいと思っているのに、人に気を遣うばかりに、そのときに状況に無理に応対してしまうために、結局、自分のことがめちゃくちゃになってしまう、そんな自分では「どうしようもないこと」に悩まされる様はこの本だけでなく、山口瞳の本全体をおおう灰色の雲のようでもあります。
そして、最後のほうでは、山口瞳は、同し年と分かった旅館のお内儀さんに酔っぱらいながらこう言います。「ねぇ、お内儀さん、こう思いませんか、私たちの齢になって何か失敗すると、それはもう取り返しのつかないことなんだって。それで、失敗は骨身にこたえるね」と。それを聞いたお内儀は「ほんとうに、そうです」と答えて、二人で笑って、その後泣くのです。

   重いね・・・・

30を過ぎた頃はこういう気持ちが分からなかった。でもだんだんと自分のまわりは「どうしようもないこと」ばかりになっていって、それを無理に何とかしようとすると「とりかえしのつかないこと」になってしまうのが実感として分かるような気がする。
もう失敗のやり直しもきかないし、すべてをなしにして新しく始めることなんてできない、と思う。誰も失敗を忘れてくれないし、新しいことは認めてくれない。けっして悲観しているわけではないけれど(してるのかな)、これからの人生そういうものに囲まれてどんどん自分の居場所が狭くなっていくのだろうな。なんてことを思いつつ通勤電車に揺られていたら駅に貼っている雑誌のポスターに「女は35から」と書かれてありました。そうなんですか?